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古代の道「山の辺の道」は歴史の道、そして今号の特集でわかるように“花の道”でもある。花とくれば乙女−とは、ちとオヤジ感覚だが、天理は乙女の交錯した地でもあったのだ。前号の在原神社にまつわる恋物語、いずれ紹介をと思っている小野小町の艶っぽい話もある。でも、美しい、楽しい話ばかりではない。
時は第25代・武烈天皇の時代、天理の地に勢力を張っていた物部(モノノベ)氏一族に、影媛(カゲヒメ)なる美しい娘がいた。恋多き年頃になって、平群鮪(ヘグリヒレ)という恋人もできて、心ウキウキ我が世の春を楽しんでいた。ところが、不幸は突然やってきた。近隣する部族間の勢力争いの中で、恋人が乃楽(ナラ)山で殺されたのである。影媛の傷心ぶりは、親兄弟でさえ慰めの声がかけられないほど。恋人を失ったショックは、泣き明かしてもなおあきらめきれず、影媛は傷心の身を乃楽山に運んで尽きぬ恨みを歌ったと云う。その歌が、櫟本町の和爾下(ワニシタ)神社の参道脇に、「影媛あわれ」と題して解説入りで掲示されている。
和爾下神社は『大和名所図会』にも出てくる歴史ある神社。もとは治道(ハルミチ)社と言って、近くには柿本寺 (シホンジ)があった。その境内地跡に、柿本人麻呂(カキノモト・ヒトマロ)の遺髪を埋めた墓だと伝えられる「歌塚」が立っている。また、南北朝時代の建武4年(1337)には、北朝軍がこの社と寺に陣取って、南朝軍と戦った。和爾下神社本殿は、国の重要文化財に指定されている。
ところで、神社の建つ辺りは昔、南の物部氏、北の和迩(ワニ)氏の勢力の接点であった。山間部の都祁(ツゲ)山道へも通じ、政治・経済・軍事・文化・交通の要衝であった。そこに生きた人々は、影媛の悲しみをどのような思いで見やったのだろうか。
By Mori
【写真】国道沿いとも思えぬ、静かなたたずまい。わずかな杜(もり)が、古代の空気を護っているようだ(和爾下神社)
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