■「国宝」が目の前に■
 

国宝―七支刀 国宝―石上神宮拝殿 国宝―出雲建雄神社拝殿
重要文化財―楼門(ろうもん)
重要文化財―鉄盾 重要文化財―硬玉勾玉 重要文化財―環頭大刀柄頭
※参照参考:『改定天理市史』上・下巻、パンフレット「石上神宮―心のやすらぎをねがって」

伝来 の宝剣―ななつさやのたち 長さ74.9cm  4世紀(古墳時代)。
―昭和28年(1953)国宝に指定。

 石上神宮の神庫(ほくら)には数多くの神宝が眠りについているという。中でも重要なものがこれ。「刀」というより両方に刃の付いた「剣」で、左右に3本ずつ交互に枝のような剣がついているところから「七支刀」の名がある。文献によっては「しちしとう」と記すものもあるが、当の神宮発行のパンフレットには、わざわざ「ななつさやのたち」とルビが振ってあるから、こちらをとりたい。漢語読みより、和語の方が似合う気もするしね。
 でも、明治以前は「六叉の鉾(ろくしゃのほこ)」とも呼ばれていた―「ろくさ」と記す文献もある。
 剣の両面に、計61文字の金象嵌の銘文が刻まれているのが分かったのは、明治6年、菅政友宮司の偉業。鉄さびに埋もれていたこともあって、その文字の読み方を巡っては、以来さまざまな説が出されてきた。
  昭和20年代になって、建築史家の福山俊男博士が7度にわたって実物調査を行った結果出された説がもっとも有力といわれている。
  これによると、中国の東晋の太和4年(369年!)、百済王が倭王に献じた「七支刀」ではないかという。これにより、『日本書紀』や『古事記』の年代観の見直しや、4〜5世紀の日本と朝鮮半島との関係解明が進展したという。ただ、細部の読み方によって、百済から倭王に「献上された」「下賜された」「両者は対等」と、まったく違った解釈があるというから興味深い。

※写真は石上神宮発行のパンフレットから
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2つ東南からのぞむの性格をもつ拝殿 正面7間(15.36m)、側面4間(7.94m)、入母屋造、向拝1間、桧皮葺。13世紀(鎌倉時代)。
―明治39年(1906)特別保護建造物、昭和29年(1954)国宝指定。

 大正期まで、石上神宮には本殿がなく、拝殿後方の禁足地を神聖な地としていた。このため、拝殿でありながら神殿と同格の扱いを受けてきた。『延喜式』の臨時祭によれば、石上社の門と正殿ならびに伴・佐伯の2殿の鍵西側からのぞむは官の庫に納められ、簡単に開くことはできなかったという。この「正殿」が、まさにいまの拝殿をさしているといわれている。2殿は神宝を納める神庫だったのだろう。
 このためか、拝殿と名づけられながら、実に堂々とした造り。正面5間、側面2間の身舎(もや=母屋)の四周に庇(ひさし)をまわし、全体で正面7間と側面4間の規模。
 身舎は丸柱、組み入れ天井で平安朝の仏堂風の造りで、平安時代後期にまで遡るとの見方もある。は角柱、化粧屋根裏。技法から鎌倉時代のものとされている。前に附属している向拝は古い部材がなく、江戸時代に増設されたものという。

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幻の寺・内山永久寺 唯一の遺構 正面5間(12.28外観m)、側面1間(2.74m)、一重、切妻造、中央軒唐破風造、桧皮葺。13世紀(鎌倉時代)
―大正5年(1916)重要文化財、昭和29年(1954)国宝指定。

 楼門の南の石垣の上に鎮座する摂社出雲建雄神社。 かつては石上神宮の南、現在の天理市杣之内町にあった大寺・内山永久寺の鎮守社だったという。明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の嵐を受けて一切が破壊され、廃寺となった。鎮守社だけはかろうじて破壊を免れたが、本殿は明治23年(1890)に放火により焼失。拝殿は荒廃のまま放置されていた。これを大正3年(1914)に現在地に移築し、石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿とした。 幻の大寺の、現存する唯一の遺構となっている。
 特徴は、細馬道長い建物の中間に、通路を確保するための馬道(めどう)が設けられている点。柱の上に三斗(みつど)を組んで虹梁を渡し、蟇股(かえるまた)で馬道の棟木を受け、前後に唐破風を両脇の軒より一段高く納めるというユニークな造り。この下は1間幅の土間で、石が敷き詰められている。
 両脇の部屋は、しばしば神事に使われるため、板張りの空間。引き違いの格子戸が立てられている。  

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もとは鐘楼門だった 一間一戸楼門、入母屋造、桧皮葺。1318年(鎌倉時代)楼門
―明治39年(1906)重要文化財指定

 楼門上層拝殿の正面に建ち、両脇に連なる優美な回廊が拝殿前庭を囲んでいる。棟木銘に文保2年と記され、建立年代が明らかな建造物。
 下層は両側に丸柱3本ずつを立て、桁行き4.45m、梁間3.34m。上層は桁行き3間(4.04m)、梁間2間(3.03m)で、下から2段ないし4段の力肘木が隅も平らも肘木と斗の部分が一木で強度をもたせている。
 下層の特異な形の蟇股、内側の天井桁受けの木鼻等に珍しい細部が用いられている。
 もとは鐘楼門で、上層に永和2年(1376)の銅鐘を吊っていたという。

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伝世の逸品 日の御盾 高さ139.38cm、幅=上部71.21cm、中央部65.15cm、下部日の御盾76.66cm。古墳時代後期〜6世紀初頭
―重要文化財

 古代大和政権の武器庫であり神宝庫であった石上には、2枚の鉄盾が伝わっている。ともに重文指定。多くの小さな鉄板を継ぎ合わせ、鋲で止めたもの。神宮では信仰上の日の御盾(ひのみたて)であるが、同じに我が国古代の武器資料としても貴重な存在。

※写真は石上神宮発行のパンフレットから
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石上神勾玉宮禁足地出土品 4世紀代

 石上神宮の拝殿の奥に、石垣で囲まれた禁足地がある。大正期に本殿が築造されるまでは、ここに磐座(いわくら)が設けられ、神籬(ひもろぎ)を立て祀(まつ)っていたという。大刀柄頭
 明治7年、菅政友・大宮司が官許を得てこの地を発掘。さらに11年の幣殿新築、大正2年の本殿新築の際もおびただしい遺物が出土した。これらは神宝として神庫に収められているが、玉や武具類の多くは4世紀ごろ、鏡は藤原時代と考えられ、考古学上も重要なものとして一括して重要文化財に指定された。
 左上は、硬玉勾玉(こうぎょく・まがたま)、右は環頭大刀柄頭(かんとう・たち・つかがしら)。

※写真は石上神宮発行のパンフレットから
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神庫(ほくら)
 このほか、市史などを見れば神宝はまだまだありそうだ。拝殿の西北方、禁足地に建つ高床式、校倉の神庫(江戸時代の再建)には、どんな秘宝が眠っているのだろうか。

・足利尊氏が献納したといわれる鎧冑、色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)は重要文化財
・ 鎌倉時代の作とみられる銘刀で小狐丸の名もある石上神宮太刀「義憲作」(長さ79.1cm、反り2.8cm―奈良県指定文化財)のほか、 武具刀剣類が秘蔵されているという。
・ 奈良時代の作と思われる口径64cmの須恵器大甕(奈良県指定文化財)

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週刊朝日百科−日本の国宝  

 日本最古ともいわれる石上神宮には、それを裏付けるお宝が、眠っている。でも、私たち一般人は、なかなか目にすることがかなわない。見たいよなーと、石上神宮発行のパンフレットの小さな写真に見入っていたら、書店でこんな本を見つけた。
 朝日新聞社発行の「週刊朝日百科『日本の国宝』」。その008「奈良/石上神宮 天理大学」編。1997年4月1日発売で、定価560円。それなりのプロが「朝日」の看板背負って撮ったわけで、「うーんナカナカ」という写真と解説が並んでいる。
  朝日のサイトにバックナンバーの申し込み欄があったから、ちゃんとした写真が見たい人は、買うかぁ。130ページほどで定価プラス送料。高いか安いか。
  (朝日新聞社から広告料は貰っておりません。いいものはイイと押しかけ宣伝です)

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