00.07.17.



文学部唯野教授
 
筒井康隆 著


発行:岩波書店
(同時代ライブラリー97)
1992年03月16日第1刷発行
1993年04月01日第7刷発行
定価:800円

 大学関係者必見!  近年“学生のレベルの低さ”をよく耳にするが、それを口にする人の・・・・を疑うことが多いもので

 本書の反響、騒動、うわさは聞いていた。
――絶賛から罵倒までというベストセラー作品が当然受ける洗礼ののちサブ・テキスト類も出尽くして現在やっと一段落、あれから2年、この同時代ライブラリー版にめでたく収まって「お祭り」は終わった。――「同時代ライブラリーによせて」 から

  いやぁ、自ら“ベストセラー”作品と記すとは、筒井先生、さすがではある。しかし私、学生時代からファンを自認しながら、タイトルのせいか何故か本書だけは手にとる気になれず、うかうかと見過ごしてきた。今回ふとしたことから読んでみて、ありゃあ、なんと面白い。筒井氏一流のパロディ、ペーソスてんこもり、そのうえ「頭の中身はどうなってるの?」と手放し絶賛の博覧強記…文学、批評、哲学、心理学、神学…。ウーンと、うなりながら一気に読み通してしまった。

 中でも、本書の一読をお勧めしたいと思ったのは、大学関係者。
――これは自分で没にした案だが、執筆時、大学の内幕をいろいろ話してくださった多くの大学関係者の皆さんがたのお名前を、単行本の巻末にSPECIAL THANKS TOとして列記しようとした。しかし「わが学内の者しか知らぬ筈の内情を筒井に告げたのはあいつだ」とされ、ご迷惑がかかるといけないから、これはとりやめた。なにしろ煙幕を張るために本書の悪口を書いた大学講師もいるのだから具合が悪い。今日この版を出すにあたって、ふたたび謝辞を述べたくなったのだが、やはりやめておくことにした。恨みや怒りに時効はないからだ。――「同時代ライブラリーによせて」 から

 何気なく大学を卒業しちゃった人や、ごくごく健全な大学で学んだ人には「ウッソー!」てなもんだろうけれど、本書に記された惨状、漫画チックなほどに浮世離れした人間関係、肥大しきった自我、幼児性、アホらしさは、どうやら日本の大学の多くの“実態”なんだろう。

 筒井氏がどこで学んだか忘れてしまったが、それでも私の知っている“13流”大学よりはましだろうと思う。というのも、本書に登場する教授や助教授、講師の言動は、まったくとんでもないけれども、実にリアルに感じられるから。それどころか、登場人物には、可愛げさえ感じてしまう----!?。いやはやなんとも、振り返ってみれば、運が悪いのか不徳の致すところか、それともみーんなそうなのかなぁ。私の知っている大学教員で、いわゆる世間一般のピープルが思い描く「大学教員」らしい人は10人に2人くらい、数えるほど--。まぁ、思い出せば厚顔無恥、唯我独尊、強烈なエゴイズム、常識の欠落、突出した自己顕示欲・・・・、「あぁ、とてもとても普通の企業じゃ、もたんよなー」てな人が、そこらにゴロゴロしてるもんなー。

 いかん、唯野教授にあてられたのか、筒井マジックにかかったか、ちょっとハレホレヒレの興奮状態--。反省、牽制、これ以上書くと、当サイトの“公序良俗”“誹謗中傷”規程に反してしまう。

 その上、かの筒井氏ですら「恨みや怒りに時効はない」と書くくらいだから、浅学非才の私なんぞ危ない危ない。
 ここで、読者諸兄にお断り:前々段落の7行ほどを読んで――“天理の町の情報発信サイト”だから、天理市にある●●大学のことだろう――などと決め付けてしまわないように!! 筒井氏が記すように、これはいわゆる“一般論”、つまりよくある話、くれぐれもお間違いのないように!!!!


 おっと、またまた本書の紹介を忘れるところ。唯野教授は文学者。本書中で繰り広げられる大学人の実態はよこにおいても、講義で展開されるのは文学論。各章は「第一講」「第二講」の表題で、印象批評、現象学、解釈学、記号論、構造主義などなど、古今東西の実在の批評家や作家、思想家の著書や論を引きながら、虚実織り交ぜてしごく真面目に論じている。この手の論理に弱い身としては、「勉強になるなぁ」の一語。

――じゃあ君たち、ちょっと、言葉を使わないで、頭の中で何か意味することを考えてくれるかい。できましたか。そりゃまあ、あんな感じ、こんな感覚、言葉でいいにくいものはあるだろうけれど、それはまだ意味ができていないからだよ。意味と言葉を切りはなすなんてことは、ドーナツを食べたら穴がなくなるのと同じことなの。――「第5講 解釈学」から

――誤読しようと思えば、日常言語ですらいくらでも誤読できるんだよね。たとえばよく電車の中に『非常の際はこの座席の下の赤いコックを90度右へ回し、手でドアを開けてください』なんて書いてあるでしょ。まず『非常の際』というのがどんな場合なのかが問題だよね。尿道炎や膀胱炎の人以外は、突然小便がしたくなったというのも非常の際に相当するわけで、ドアを開けて小便してくださいと書いてあるようにも誤読できるわけでさあ。電車の事故による非常の際だと限定したところで、じゃあ停まらなくなった電車のドアを開けてとび降りろと言うのかってことになる。次に『90度』だけど、これ、直角の90度なのか、90回まわせと言っているのかわからない。『90°』なんて書いたら、900回と間違うことになる。これだってやっぱり異化作用には違いないわけで、つまりどんな文章だって誤読は無限にできるわけであって、日常言語だから意味の限定されたことばだってことにはならないの。――「第3講 ロシアフォルマリズム」から

 いやぁ、さすがに作家。ことばに関する洞察の鋭いこと。フムフムと納得、お徳。嬉しく読み飛ばしてしまった。一度、読んでみたら? でもさぁ、学術論文って、なんで悪文が多いんだろうねぇ。「しかし」や「ところが」や「であるが」で繋いで、一つの文章が延々と続くんだもんなぁ。どんな思惟、思考してるんだろうねぇ

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