| 00.09.27. | ||
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「臓器」商品化時代の現実 粟屋 剛 著 |
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定価:1,600円(税別) |
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人体すら「商品」となる時代がきた。本書を読み、慄然とした。 |
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突発性気胸を病み、入退院を繰り返して後、左胸にステンレス製(だと思う)のクリップを幾つか埋めてもらった。胸腔鏡下のオペで、ブラ(風船のように突出した肺胞の薄い部分)を切除しながら閉じ合わせる部品。術後に、術中に自分の胸の中を映したビデオテープを貰った。ヘビースモーカー歴20年が覚悟していたより、思ったより綺麗な色で、しかし、やはり所々にタールの染みがあった。この身を貸し与えて下されし神に詫びつつ、だが悪習は数年後のいまなお、治っていない。反省(^^;) これがクリップ(金属)だからいいが、他者の組織、臓器だったらどうだろう? さて、本書の要点は表紙に、(簡潔にではないが)長い紹介文として記されている。 「臓器移植」という特殊な医療の怖さは、富者の医療となる恐れのあること。日常的に脳死臓器移植が行われていると(日本で)思われている欧米でも、臓器を必要とする人(レシピエント)に比べ、ドナー(臓器提供者)の数は絶対的に足りない。それどころか、年々、減少傾向にあるとの報告すらある。だから、欧州ではドナーを増やすために高速道路の制限速度を引き上げるべきだといった、笑えないジョークすら生まれている。 わが国でマスコミをも巻き込んで、繰り広げられる愛の募金。幼子が「移植しかたすかる道がない」と医師に宣告されれば、私もそうするかもしれないが、迎える米国や豪州では、金満日本人が金にあかして臓器を買いにきた――と見られているとも聞く。重ねて記すが、事実、それらの国々でもレシピエントに対して、提供される臓器は決して十分ではないから。 と―なると、どうなるだろう。移植以外に助かる道がないと“宣告”されたお金持ちは、金にあかして臓器を買おうとするだろう。「そんなバカな」などと思ってはいけない。事実世界では、それが起こっているのだ。献血制度が生まれる前、貧しかったわが国で「売血」が収入源の一つであったように、フィリピンでインドで、臓器売買が行われているという。本書には、著者自らが見聞したそうしたケースが、克明に記されている。 ここで目次を記しておこう。 私は提供しない。だから自らを含めて、たとえ娘や近親者が「臓器移植以外にたすかる道がない」と医師に宣告されたら、逍遥としてそれを受け容れようと思う。 がんの告知と似ているといわれる、その宣告は、がん告知とは似て非なるもの、だと思う。がん告知なら、最初は否認し、拒否し、なお怒りつつも、やがて事実を受け容れ、自らの歩んできた生を総決算し、生の意味と重みを味わうだろう―と思う(キューブラー・ロス氏に影響されているかな?)。がん治療は、医療者と己(己の身体)の間のみで完結するからだ。 だが「臓器移植しか、たすかる道はありませんよ」と告げられたとき、「たすかる道はない」という部分を聞くだろうか? 否!「臓器移植+たすかる」と聞き取るだろう。それからの日々は、自らの生や生きる意味を問う暇もなく、「どこかの誰かが、私に臓器を呉れないか」と、思い、念じつづけるに違いない。提供者が現れればいいが、圧倒的ドナー不足の現状では、提供を希望する人の多くが、移植を受けられないまま死んでいく。その間際まで、臓器を渇望しながら。 それは、意識するとしないとにかかわらず、「どこかの誰かの死(=脳死)」を期待し、乞い願うことにほかならない。自らの命のために、他者の死を待つ―なんとむごい医療だろうか。実際に心臓や肺を病み、移植しかないと告知されている方々には心からお見舞いを申し上げたいし、同情する。 が、「移植以外に…」と軽々に告知する、医療者の姿勢には疑念を禁じえない。 だから、臓器には値がつく。貧しい「南」の国々で、臓器を売買する人々がいることを、責めるわけにはいかない―そう思う。他者の身体、臓器を必要とする処置は「医療」といえるのだろうか? 人体とは何だろう。本書を読んで、いま一度、考えたい。考えていただきたい。そう思う。
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