| 00.06.22. | ||
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AERA Mook 日野原重明ほか |
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「死」を真正面から見つめ、考え、語り合う勇気を、私はまだ持っていない。 |
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昨年来、死について考え、語ることが多い。脳死に尊厳死、死の自己決定権、過労死、ターミナルケア.........。仕事とはいいながら、やはり40の坂を越えると、関心の出てくる事。書店に行っても、他人の机を見ても、ついつい目がとまる。本書も上司の机にあったもの。自宅に電話をして拝借し、一気に読んだ。読後、一冊手元においておきたくなって、書店に注文した。 目次を開けば、脳死、尊厳死はもとより、自殺、人生の最後の「生命の質」、死を受容する心理学、ホスピス論、生命倫理学、ライフステージと死、癒しと看取りの現場からなどなど、まさに死に関する諸学を網羅した「手引き書」「入門書」のおもむき。 その冒頭には、かの巨人、聖路加国際病院の理事長・日野原重明医師が、「よく生きることは、よく死ぬこと」と題した一文を寄せておられる。心にかかるフレーズを、ちょっとつまみぐいしてみよう。 ――よく生きるということは、健やかに生き、かつ、よく(健やかに)死ぬことだと私は思う。よく死ぬということは、身体的な苦しみが少なく、かつ、平静な心、できれば与えられた生を最後に感謝する言葉を、子どもや友人、次の世代の人に残して死ぬことだ、と私は思っている。 日野原先生の言葉の中には、ここに引いたわずかな部分にさえ、実にさまざまなものが含まれているように思う。人はいつか必ず死ぬということ。その当たり前のことから目をそむけ、死を医学や信仰の敗北だと考えるとしたら、絶対に勝者にはなれない。やがて必ず来る死の扉の前で、おたおたオロオロとすることになるに違いない。 一方で、死が決して自分だけの問題ではないということも、あらためて気づかされる一点。脳死臓器移植を巡るアンケートでは、自らの臓器を提供してもよいという人の多くが、肉親の臓器は提供できないと答えている。自他をめぐる感情の非対称。「死の自己決定権」をも含めて、もっともっと考えていかなくてはと、思う。 ドナーカードを持つ人は、肉親の悲嘆は想像もできずに「私の体のことは私が決める」と思っているのだろうか。たとえば私は、娘にもしもの事があった時、ドナーカードを持っていようが、脈打ち温かい身体にメスを入れさせることはできない。それが本人の遺志であろうが、断じてできない。 先端科学技術に関する多くの優れたドキュメントやレポートを発表している柳田邦男氏は、子息が脳死となった体験から、多くの示唆に富む論考を発表している。その中に、死の“人称”ということがあった。一人称の死、二人称の死、三人称の死。私自身なのか、かけがえのない人なのか、一般論あるいは他所の誰かのことなのか。 脳死臓器移植ならドナーとレシピエント、およびそれぞれの家族に三つの人称を当てはめて、考えて見なくてはならないだろうと思う。死の自己決定、自殺、殺人.....死を巡る諸相に目を向ければ、心乱れ、惑う。それでもなお目を見開き、分からなければ分からないなりに、考え続けなくては。 ――医学は、いくら進歩しても、人の死をなくすことはできない。長寿国の日本人は、いつまでも生きられるつもりで、老いや死を忌み嫌い向き合おうともしないが、それはいつか来る死と向き合おうとしない錯覚にすぎない。
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